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	<title>常泉堂 | 常泉堂</title>
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	<description>医学と美術と書籍の雑記</description>
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	<title>常泉堂 | 常泉堂</title>
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	<item>
		<title>ゴヤ《アリエータ医師のいる自画像》</title>
		<link>https://izumi.blog/archives/000005/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[常泉堂]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 01 Aug 2026 12:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[医学と美術]]></category>
		<category><![CDATA[医師と芸術家]]></category>
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					<description><![CDATA[フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス（1746－1828）による《アリエータ医師のいる自画像》（1820）は、画家の自画像であり医師の肖像画である。病気により衰弱した晩年の画家は、その命を救うために活動した医師に感謝の意を込めた作品を残した。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="600" height="894" src="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/08/20260801.jpeg" alt="ゴヤ《アリエータ医師のいる自画像》" class="wp-image-360" srcset="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/08/20260801.jpeg 600w, https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/08/20260801-201x300.jpeg 201w" sizes="(max-width: 600px) 100vw, 600px" /><figcaption class="wp-element-caption"><strong>フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス</strong><br><strong>《アリエータ医師のいる自画像》</strong><br>図版出典：<a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://collections.artsmia.org/art/1226/self-portrait-with-dr-arrieta-francisco-jose-de-goya-y-lucientes">Self-Portrait with Dr. Arrieta, Francisco José de Goya y Lucientes | Mia</a></figcaption></figure>



<div style="height:3px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph">　<strong>フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス（1746－1828）</strong>による《アリエータ医師のいる自画像》（1820）は、画家の自画像であり医師の肖像画である。病気により衰弱した晩年の画家は、その命を救うために活動した医師に感謝の意を込めた作品を残した。<br><br>　独自の表現を追求しながらも、ゴヤは画家として成功することを意識して作品を制作していた。上流社会に上手く溶け込み、その作品は高い評価を獲得する。1789年には、<strong>カルロス4世（1748－1819）</strong>の宮廷画家という名誉ある地位にまで昇進を果たした。<br><br>　しかし、その順調な画家としての生活に予期せぬ事件が起こる。1792年に、ゴヤは休暇と推測される旅の途中で体調を崩した。セビーリャで発病した画家は、カディスに暮らす友人の家で療養することになる。そして、その保養地で数か月を過ごした。<br><br>　詳細な記録が残されていないため、ゴヤを重症に陥らせた病気の正体を特定することは困難である。鉛中毒や梅毒、あるいは希少な疾患名を候補に挙げる研究者もいる。いずれにせよ、このときの病気の後遺症により画家の聴力は失われた。<br><br>　ゴヤの作品には、すでに不穏な要素が出現していた。失聴という経験は、そのような傾向を深める契機となる。このとき、スペインには戦争が近づいていた。個人の不安と社会の混乱は、怪物や魔女が登場する風刺に満ちた作品を画家に描かせることになる。<br><br>　それらの作品の制作だけではなく、ゴヤは宮廷の人々のための仕事も続けていた。そして、1799年には主席宮廷画家という画家として最高の地位を獲得する。しかし、かつての出世に対する執着は薄れていた。やがて、画家は社会から離れた生活をするようになる。<br><br>　1819年に、ゴヤはマドリードの郊外に別荘を購入した。その建物は、奇しくも「聾者の家」と呼ばれていた。そこに転居した画家は、再び病気となり倒れてしまう。しかし、<strong>エウジェニオ・ガルシア・アリエータ（1770－？）</strong>という医師の仕事により救われた。<br><br>　その熱心な献身の記録は、ひとつの作品として残された。そこには、ふたりの人物が対照的に表現されている。画家は、敷布を軽く掴みながら虚空を眺めている。医師は、グラスを強く握りながら患者を見つめている。この空間には、生と死の要素が混在している。<br><br>　ふたりを取り巻くように、数人の姿が闇に紛れて浮かび上がる。それらの観察者たちには、さまざまな解釈が与えられている。この不穏な情景から、ゴヤは絵筆を持つことができる状態にまで回復した。そして、アリエータによる看護と治療を讃える作品を描いた。<br><br>　その晩年に、ゴヤは「黒い絵」と呼ばれる複数の作品の制作に取り組むようになる。そこにも、病気による失聴や度重なる戦争から受けた影響が見られる。この自画像でもある肖像画も含めて、画家は狂気の気配を漂わせる作品を繰り返し描き続けたのである。</p>



<div style="height:0px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer is-style-bottom-margin-3em has-bottom-margin"></div>



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<div class="wp-block-cocoon-blocks-blank-box-1 blank-box block-box has-border-color has-key-color-border-color">
<p class="wp-block-paragraph"><span class="fz-12px"><strong>図版資料</strong><br>フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス《アリエータ医師のいる自画像》（1820）<br>キャンバス・油彩/114.62cm×76.52cm/ミネアポリス美術館（ミネアポリス/アメリカ）<br><br><strong>図版出典</strong><br><a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://collections.artsmia.org/art/1226/self-portrait-with-dr-arrieta-francisco-jose-de-goya-y-lucientes">Self-Portrait with Dr. Arrieta, Francisco José de Goya y Lucientes | Mia</a><br><br><strong>参考文献</strong><br>アルフォンソ・ペレス・サンチェス『ゴヤ』木下亮［訳］/中央公論社/1994<br>サラ・シモンズ『ゴヤ』（岩波：世界の美術）大高保二郎、松原典子［訳］/岩波書店/2001<br>ツヴェタン・トドロフ『ゴヤ：啓蒙の光の影で』小野潮［訳］/法政大学出版局/2014<br><br><strong>参考ウェブサイト</strong><br><a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://fundaciongoyaenaragon.es/obra/goya-a-su-medico-arrieta/200">Goya a su médico Arrieta &#8211; Fundación Goya en Aragón</a></span></p>
</div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ホガース《兎のようなもの》</title>
		<link>https://izumi.blog/archives/000004/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[常泉堂]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jul 2026 12:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[医学と美術]]></category>
		<category><![CDATA[産科学]]></category>
		<category><![CDATA[疑似科学]]></category>
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					<description><![CDATA[　ウィリアム・ホガース（1697－1764）による《兎のようなもの、あるいはゴダルミングの賢者たちの協議》（1726）は、イギリスの国王から国民まで大勢が巻き込まれた事件を題材にしている。その奇妙な騒動は、妄信することの危うさを教訓として残した。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img decoding="async" width="600" height="454" src="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/07/20260718.jpeg" alt="ホガース《兎のようなもの》" class="wp-image-357" srcset="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/07/20260718.jpeg 600w, https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/07/20260718-300x227.jpeg 300w" sizes="(max-width: 600px) 100vw, 600px" /><figcaption class="wp-element-caption"><strong>ウィリアム・ホガース<br>《兎のようなもの、あるいはゴダルミングの賢者たちの協議》</strong><br>図版出典：<a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://wellcomecollection.org/works/k3zyn6tm">Mary Toft (Tofts) appearing to give birth to rabbits in the presence of several surgeons and man-midwives sent from London to examine her. Etching by W. Hogarth, 1726. | Wellcome Collection</a></figcaption></figure>



<div style="height:3px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph">　<strong>ウィリアム・ホガース（1697－1764）</strong>による《兎のようなもの、あるいはゴダルミングの賢者たちの協議》（1726）は、イギリスの国王から国民まで大勢が巻き込まれた事件を題材にしている。その奇妙な騒動は、妄信することの危うさを教訓として残した。<br><br>　<strong>メアリー・トフト（1701－1763）</strong>は、ゴダルミングという村に住む仕立て職人の妻である。この妊婦は、1726年に畑仕事の途中で兎を取り逃した。その印象は強く残り、胎内にまで影響を与えたらしい。やがて、妊婦は大きな肉塊や動物の断片を産み落とした。<br><br>　トフトは、さらに兎たちを連続して出産した。<strong>ジョン・ハワード（生没年不詳）</strong>という地元の産科医は、この田舎の事件を都会の貴族や医師の肩書を持つ人物たちに報告することにした。それらの手紙により、兎を出産する妊婦の噂はロンドンに届けられた。<br><br>　<strong>ジョージ1世（1660－1727）</strong>は、その事件に関心を寄せて調査を決定した。<strong>サミュエル・モリニュー（1689－1728）</strong>という科学者でもある秘書官、<strong>ナサニエル・セント・アンドレ（1680－1776）</strong>という宮廷解剖学者のふたりが真相を追求する任務に就いた。<br><br>　調査官たちは、トフトの入院する地元の産科医の家を訪問した。そのとき、15匹目の兎が産まれようとしていた。ふたりは、妊婦が兎の胴体の部分を出産する現場に立ち会うことができた。すでに死亡している兎は、すぐに解剖されて詳細に分析された。<br><br>　その兎の肺は、調査の過程で水に浮くことが判明した。それは、妊婦の胎内にいた兎が空気を得ていたことを意味する。セント・アンドレは、この結果を粗雑な偽装ではなく自然の驚異として受け止めた。そして、兎の出産を信じて奇跡の体験を書籍にまとめた。<br><br>　噂の出産を疑う医師たちもおり、この事件に大勢の国民たちが注目した。ついに、問題の妊婦はロンドンの宿で監視される。その出産の秘密は、兎の調達を頼まれた宿の雑役夫が治安判事に自白して露見した。事件の主役も、ようやく出産が演技であると認めた。<br><br>　<strong>ジョン・モーブレイ（1700－1732）</strong>は、トフトの出産の体験を胎内感応説により説明していた。妊婦の見たものは、その印象が強ければ胎児の姿に影響を与えることがあるという。実際のところは、医師たちが見たいものを信じて失態を演じただけに過ぎない。<br><br>　ホガースは、この奇妙な騒動を風刺画として描いた。舞台のような室内で、妊婦は兎を出産しようとする。左側の家族たちは不安な表情で見守り、右側の医師たちは熱心な様子で分娩に携わる。開いた扉から差し込む光は、たくさんの兎たちを照らし出している。<br><br>　画家の痛烈な批判は、妊婦ではなく医師たちに向けられている。その有能であるという過信は、やがて妄信となり無能であることを自ら証明する結果を招いた。この兎の出産をめぐる騒動は、捏造に対する医師たちの失敗の事例として語り継がれている。</p>



<div style="height:0px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer is-style-bottom-margin-3em has-bottom-margin"></div>



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<div class="wp-block-cocoon-blocks-blank-box-1 blank-box block-box has-border-color has-key-color-border-color">
<p class="wp-block-paragraph"><span class="fz-12px"><strong>図版資料</strong><br>ウィリアム・ホガース《兎のようなもの、あるいはゴダルミングの賢者たちの協議》（1726）<br>紙・エッチング/18.8cm×25.3cm/ウェルカムコレクション（ロンドン/イギリス）<br><br><strong>図版出典</strong><br><a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://wellcomecollection.org/works/k3zyn6tm">Mary Toft (Tofts) appearing to give birth to rabbits in the presence of several surgeons and man-midwives sent from London to examine her. Etching by W. Hogarth, 1726. | Wellcome Collection</a><br><br><strong>参考文献</strong><br>伊丹市立美術館［編集］『ウィリアム・ホガースの銅版画：館蔵品目録』伊丹市立美術館/1997<br>森洋子『ホガースの銅版画：英国の世相と諷刺』（双書美術の泉：48）岩崎美術社/1981<br>クリフォード・ピックオーバー『ビジュアル医学全史：魔術師からロボット手術まで』板谷史、樺信介［訳］/岩波書店/2020<br>ヤン・ボンデソン『陳列棚のフリークス』松田和也［訳］/青土社/1998<br>J.アンダーソン、E.バーンズ、E.シャクルトン『アートで見る医学の歴史』矢野真千子［訳］/河出書房新社/2012</span></p>
</div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>トゥールーズ゠ロートレック《アンリ・ブールジュ医師の肖像》</title>
		<link>https://izumi.blog/archives/000003/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[常泉堂]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 04 Jul 2026 12:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[医学と美術]]></category>
		<category><![CDATA[医師と芸術家]]></category>
		<category><![CDATA[感染症学]]></category>
		<category><![CDATA[精神医学]]></category>
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					<description><![CDATA[　アンリ・ド・トゥールーズ゠ロートレック（1864－1901）による《アンリ・ブールジュ医師の肖像》（1891）は、縦型の構図のなかに軽快な筆致でアトリエを訪問する友人の姿を描いている。多病な画家は、いつでも医師が身近にいる生活をしていた。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img decoding="async" width="600" height="933" src="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/07/20260704.jpeg" alt="トゥールーズ゠ロートレック《アンリ・ブールジュ医師の肖像》" class="wp-image-355" srcset="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/07/20260704.jpeg 600w, https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/07/20260704-193x300.jpeg 193w" sizes="(max-width: 600px) 100vw, 600px" /><figcaption class="wp-element-caption"><strong>アンリ・ド・トゥールーズ゠ロートレック<br>《アンリ・ブールジュ医師の肖像》</strong><br>図版出典：<a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://collection.carnegieart.org/objects/3ed7e910-49a0-4e5f-9355-0bfd9863115b">Collection | Carnegie Museum of Art</a></figcaption></figure>



<div style="height:3px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph">　<strong>アンリ・ド・トゥールーズ゠ロートレック（1864－1901）</strong>による《アンリ・ブールジュ医師の肖像》（1891）は、縦型の構図のなかに軽快な筆致でアトリエを訪問する友人の姿を描いている。多病な画家は、いつでも医師が身近にいる生活をしていた。<br><br>　トゥールーズ゠ロートレックには、<strong>アンリ・ブールジュ（1861－1941）</strong>という医師の友人とパリで共同生活をしていた時期がある。この友人と暮らすことで、画家は医学の関係者たちと交流する機会を得た。そして、医学に対する関心を深めることになる。<br><br>　1887年に、ふたりはフォンテーヌ通り19番地に部屋を借りた。ブールジュは、すでに医師となるための試験に合格していた。トゥールーズ゠ロートレックは、その翌年に同居人がインターンとして勤務するビセートル病院を友人たちと一緒に訪問した。<br><br>　そこは、精神医学の歴史と密接な関係を持つ場所である。1793年に、<strong>フィリップ・ピネル（1745－1826）</strong>はビセートル病院で精神病に対する治療の改革を進めた。この病気の患者たちは、鎖による拘束や鞭による虐待などから次第に解放されるようになる。<br><br>　1891年に、画家は医学博士の称号を得た友人の肖像画を制作した。ブールジュの訪問を告げる開いた扉、壁の掛け軸や床のキャンバスは形状と色彩に共通の要素がある。それらの小道具類は、手袋に視線を向けた友人の姿を際立たせて画面に調和も与えている。<br><br>　友人の肖像画は、同年に開催されたアンデパンダン展の出品作となる。その展覧会と近い時期に、ふたりはフォンテーヌ通り21番地に転居した。この共同生活は、1894年に医師が結婚するまで続けられた。同居を解消しても、ふたりは変わらずに交流した。<br><br>　ブールジュは、トゥールーズ゠ロートレックの健康状態を気にかけていた。不摂生な生活により、画家の身体は梅毒やアルコール依存症におかされていた。それらの症状が悪化して、1899年にはアルコール中毒による発作が起きて入院を余儀なくされた。<br><br>　画家が約2か月を過ごした場所は、<strong>ルネ・セムレーニュ（1855－1934）</strong>の運営する病院である。この医師の曽祖父は、ピネルの弟に当たる。その施設を退院するも、画家の心身は病気に蝕まれ続けていた。そして、1901年に病床で人生を閉じることになる。<br><br>　梅毒は、主に性行為が原因で感染する。ブールジュは、1897年に『梅毒の衛生学』という論文を出版している。共同生活をしていた頃から、この医師は画家に対して奔放な生活を改めるように求めていた。それは、梅毒という病気を知る立場からの忠告である。<br><br>　ふたりの関係は、友人や同居人だけではない。画家とモデルのときもあれば、医師と患者のときもある。そのときの状況に応じて、ふたりは観察者と観察対象という役割を交代していた。この奇妙ともいえる関係が、お互いの仕事に活かされていたのである。</p>



<div style="height:0px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer is-style-bottom-margin-3em has-bottom-margin"></div>



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<div class="wp-block-cocoon-blocks-blank-box-1 blank-box block-box has-border-color has-key-color-border-color">
<p class="wp-block-paragraph"><span class="fz-12px"><strong>図版資料</strong><br>アンリ・ド・トゥールーズ゠ロートレック《アンリ・ブールジュ医師の肖像》（1891）<br>板に取り付けられた厚紙・油彩/78.74cm×50.48cm/カーネギー美術館（ピッツバーグ/アメリカ）<br><br><strong>図版出典</strong><br><a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://collection.carnegieart.org/objects/3ed7e910-49a0-4e5f-9355-0bfd9863115b">Collection | Carnegie Museum of Art</a><br><br><strong>参考文献</strong><br>ヴォルフガング・エッカルト『医学の歴史』今井道夫、石渡隆司［監訳］/東信堂/2014<br>エドワード・ショーター『精神医学歴史事典』江口重幸、大前晋［監訳］/みすず書房/2016<br>ジェラール・デュロゾワ『ロートレック』（岩波：世界の巨匠）小勝禮子［訳］/岩波書店/1994<br>スティーヴ・パーカー［監修］『医学の歴史大図鑑』酒井シヅ［日本語版監修］/河出書房新社/2017<br>フランス美術館連盟［編］『トゥールーズ＝ロートレック：ロンドン、パリ作品展の記録』池上忠治［日本語版総監修］/同朋舎出版/1994<br>マティアス・アルノルト『アンリ・ド・トゥールーズ＝ロートレック』真野宏子［訳］/PARCO出版/1996<br>ルネ・スムレーニュ『フィリップ・ピネルの生涯と思想』影山任佐［訳］/中央洋書出版部/1988<br>Kyriakos Koutsomallis, Toulouse-Lautrec : woman as myth, Umberto Allemandi, 2001</span></p>
</div>
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			</item>
		<item>
		<title>ハーヴェイ『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』</title>
		<link>https://izumi.blog/archives/000002/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[常泉堂]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 20 Jun 2026 12:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[医学と書籍]]></category>
		<category><![CDATA[解剖学]]></category>
		<category><![CDATA[循環器学]]></category>
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					<description><![CDATA[　ウィリアム・ハーヴェイ（1578－1657）による『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』（1628）は、収縮と拡張を繰り返して血液を全身に循環させるという心臓の機能を説明している。この血液循環説は、多くの実験の積み重ねにより証明された。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="600" height="412" src="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/06/20260620.jpeg" alt="ハーヴェイ『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』" class="wp-image-353" srcset="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/06/20260620.jpeg 600w, https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/06/20260620-300x206.jpeg 300w" sizes="(max-width: 600px) 100vw, 600px" /><figcaption class="wp-element-caption"><strong>ウィリアム・ハーヴェイ<br>『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』</strong><br>図版出典：<a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://wellcomecollection.org/works/mv97watr">M0013867: Experiment to demonstrate valves in the veins, 1628 | Wellcome Collection</a></figcaption></figure>



<div style="height:3px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph">　<strong>ウィリアム・ハーヴェイ（1578－1657）</strong>による『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』（1628）は、収縮と拡張を繰り返して血液を全身に循環させる心臓の機能を説明している。この血液循環説は、長期間にわたる実験により証明された。<br><br>　<strong>ガレノス（129－216頃）</strong>は、膨大な著作のなかで血液の役割も説明した。その意見によれば、血液は肝臓で生成される。それは、静脈を通じて心臓の右側の区画に向かう。そして、心臓の内部を隔てる壁にある小さな孔を経由して左側の区画に移動する。<br><br>　そこでは、血液が肺から送られてきた空気と混ざり合う。このとき、生命を活動させるために必要な精気も発生する。その過程を経て、動脈を通じて血液は各器官に行き渡り消費される。このように、ガレノスは精気という概念も含めながら血液の流れを説明した。<br><br>　ハーヴェイは、1599年にイギリスを離れてイタリアのパドヴァ大学に留学した。ガレノスが残した著作は、この時代にも医学の権威による理論として受け入れられていた。しかし、パドヴァ大学の解剖学者たちは従来の学説とは異なる意見を相次いで発表していた。<br><br>　<strong>アンドレアス・ヴェサリウス（1514－1564）</strong>は、自らの手で人間を解剖して心臓の内部を隔てる壁に孔はないと報告した。<strong>レアルド・コロンボ（1516－1559）</strong>は、血液が肺を経由することで心臓の右側の区画から左側の区画に移動するという肺循環を説明した。<br><br>　<strong>ヒエロニムス・ファブリキウス（1537－1619）</strong>は、血液の流れを調整する静脈の弁の機能を研究していた。ハーヴェイは、1602年に医学博士の学位を取得する。そして、ファブリキウスからの教えを受け継いで心臓の機能を解明する仕事に取り組むようになる。<br><br>　イギリスに帰国すると、ハーヴェイは人間を含む多くの動物たちを解剖や実験の対象にすることができる環境を得た。1609年に聖バーソロミュー病院の内科医となり、1615年にロンドン王立内科医師会の外科講座であるラムリー講座の講師に就任したのである。<br><br>　その研究の成果は、1628年に出版された書籍にまとめられている。ハーヴェイは、血液の総量や速度を計算した。その結果として、それが短時間に生産も消費もできないことを示した。血管を結紮する実験により、血液が特定の方向に流れることも証明した。<br><br>　この書籍には、上腕を止血帯で縛る実験の図版が掲載された。静脈の膨らみを指で押すことで、弁が血液を一方向に流すという事実が簡潔に伝わる。さまざまな実験は、血液が心臓の左側の区画から全身をめぐり右側の区画に戻るという体循環の証明に繋げられた。<br><br>　心臓は、その拍動により血液を全身に循環させている。この血液循環説は、従来の学説の信奉者たちから批判された。しかし、新しい発見も次第に受け入れられていく。ハーヴェイの著作は少ないが、この書籍は医学の進展に重要な役割を果たしている。</p>



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<p class="wp-block-paragraph"><span class="fz-12px"><strong>図版資料</strong><br>ウィリアム・ハーヴェイ『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』（1628）<br><br><strong>図版出典</strong><br><a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://wellcomecollection.org/works/mv97watr">M0013867: Experiment to demonstrate valves in the veins, 1628 | Wellcome Collection</a><br><br><strong>参考文献</strong><br>ヴォルフガング・エッカルト『医学の歴史』今井道夫、石渡隆司［監訳］/東信堂/2014<br>ジョール・シャケルフォード『ウィリアム・ハーヴィ：血液はからだを循環する』梨本治男［訳］/大月書店/2008<br>スティーヴ・パーカー［監修］『医学の歴史大図鑑』酒井シヅ［日本語版監修］/河出書房新社/2017<br>ハーヴェイ『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』暉峻義等［訳］/岩波書店/1961<br>J.アンダーソン、E.バーンズ、E.シャクルトン『アートで見る医学の歴史』矢野真千子［訳］/河出書房新社/2012</span></p>
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		<title>ランブール兄弟《解剖学的人体あるいは占星学的人体》</title>
		<link>https://izumi.blog/archives/000001/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[常泉堂]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 06 Jun 2026 12:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[医学と美術]]></category>
		<category><![CDATA[占星学]]></category>
		<category><![CDATA[体液病理学]]></category>
		<category><![CDATA[感染症学]]></category>
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					<description><![CDATA[　ランブール兄弟（15世紀初期活動）による『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』の《解剖学的人体あるいは占星学的人体》（1411－1416）は、写本に描かれた幻想的な人体図である。そこには、この時代における医学と占星学の密接な関係が示されている。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="600" height="780" src="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/06/20260606.jpeg" alt="ランブール兄弟《解剖学的人体あるいは占星学的人体》" class="wp-image-351" srcset="https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/06/20260606.jpeg 600w, https://izumi.blog/wp-content/uploads/2026/06/20260606-231x300.jpeg 231w" sizes="(max-width: 600px) 100vw, 600px" /><figcaption class="wp-element-caption"><strong>ランブール兄弟<br>『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』の《解剖学的人体あるいは占星学的人体》</strong><br>図版出典：<a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Anatomical_Man.jpg">File:Anatomical Man.jpg &#8211; Wikimedia Commons</a></figcaption></figure>



<div style="height:3px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph">　<strong>ランブール兄弟（15世紀初期活動）</strong>による『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』の《解剖学的人体あるいは占星学的人体》（1411－1416）は、写本に描かれた幻想的な人体図である。そこには、この時代における医学と占星学の密接な関係が示されている。<br><br>　時祷書とは、キリスト教徒が日々の祈りのために使用する書籍である。その挿絵や装飾には、所有者の好みが反映されることがある。<strong>ベリー侯ジャン（1340－1416）</strong>のための時祷書には、12か月の暦に対応する12種類の星座を周囲に配置した人体図が採用された。<br><br>　祈祷文だけではなく、時祷書にはキリスト教における年間の行事が各月ごとに掲載された。しかし、このように星座と組み合わせた人体図は他の時祷書には見られない。その独特な挿絵の選択には、ベリー侯の占星学に対する強い関心が影響していると考えられる。<br><br>　この緻密な描写の人体図は、かつての医学と占星学の深い関係を示す証拠でもある。身体と天体は、小宇宙と大宇宙という関係にあるとされた。黄道十二宮の各星座が身体の各部位に対応しており、天体の移動が身体の状態に変化をもたらすと信じられていた。<br><br>　占星学の要素は、四体液説とも呼ばれる体液病理学と結びつけられた。それは、4種類の基本となる体液の状態が心身に影響を与えるという理論である。血液と粘液、黄胆汁と黒胆汁の調和が失われることで病気が引き起こされると考えられていた。<br><br>　それらの体液の均衡を整えるために、血液を抜く瀉血という治療がおこなわれた。その処置には、星座と組み合わせた人体図が使用された。黄道十二宮と身体の関係が重要であり、瀉血の実行日や処置をする身体の部位の決定に宇宙の影響を考慮したのである。<br><br>　要素が同数であることから、四体液説は四季や四大元素に対応させることができた。熱と冷、湿と乾という物質の性質も同数である。このような数字の合致は、四体液説が信頼できる理論として長期間にわたり広い地域で信頼を得る要因となる。<br><br>　4種類の体液は、個人の気質に関係するという意見も存在した。血液による多血質は社交的で楽観的、粘液による粘液質は受動的で内向的な気質を与える。黄胆汁による胆汁質は激情的で外向的、黒胆汁による憂鬱質は消極的で悲観的な気質をもたらすという。<br><br>　ベリー侯の時祷書における人体図は、12種類の星座による楕円形の輪の内側に描かれている。その外側の四隅には、青色と赤色の文字により複数の概念の対比が記された。黄道十二宮の各星座、物質の性質と個人の気質などが4種類にまとめられている。<br><br>　身体と天体の関係は、ランブール兄弟の丁寧な筆致により表現された。しかし、1416年に時祷書の依頼主も三兄弟も没する。おそらくペストが原因であり、別の画家たちが残りのページを引き継いだ。そのため、この時祷書は完成までに約1世紀の時間を要した。</p>



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<div class="wp-block-cocoon-blocks-blank-box-1 blank-box block-box has-border-color has-key-color-border-color">
<p class="wp-block-paragraph"><span class="fz-12px"><strong>図版資料</strong><br>ランブール兄弟『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』の《解剖学的人体あるいは占星学的人体》（1411－1416）<br>コンデ美術館（シャンティイ/フランス）<br><br><strong>図版出典</strong><br><a rel="noopener noreferrer external" target="_blank" href="https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Anatomical_Man.jpg">File:Anatomical Man.jpg &#8211; Wikimedia Commons</a><br><br><strong>参考文献</strong><br>ヴォルフガング・エッカルト『医学の歴史』今井道夫、石渡隆司［監訳］/東信堂/2014<br>スティーヴ・パーカー［監修］『医学の歴史大図鑑』酒井シヅ［日本語版監修］/河出書房新社/2017<br>レイモン・カザル『ベリー侯の豪華時禱書』木島俊介［訳］/中央公論社/1989<br>木島俊介『美しき時禱書の世界：ヨーロッパ中世の四季』中央公論社/1995</span></p>
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